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たまる会ご紹介
獅子舞の実際
杷木文化遺産
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たまる会のご紹介
たまる会のご紹介 
朝倉市社会教育委員(現役、OB)の自主的勉強会です。
参加者(2014年11月現在、順不同)松木 祥憲、一瀬 徹夫、丸山 富貴子、佐々木 明子、梶原 明彦、内藤 主悦、田中 幸一、稲葉 明代、立花 宏、

自由研究テーマ
 1、朝倉地方の獅子舞の実際
 2、美術展のあり方
 3、そのた、随時追加します。

◎第3回社会教育委員自主研修会「佐田・黒川」
 8月31日に表記研修会が開催されました
 ※当日の資料は、→こちら  黒川院地図は、→こちら

◎第2回社会教育委員自主研修会「秋月校区の巻」
 9月30日に表記研修会が開催されました。
 ※当日の写真は、→こちら  レジュメ(PDF)は、→こちら

◎第1回社会教育委員自主研修会「杷木地域における文化遺産」
 平成27年朝倉市社会教育委員の会自主研修資料『杷木地域における文化遺産』のresumeを
 PDFにしてアップしました。
 ※ PDF資料は、→こちら

◎朝倉地方の獅子舞の実際
     梶原氏より寄稿頂きましたのでそのままアップしております。
     近日中に、編集などを行いますのでしばらくお待ちください。


  たまる会ホームページ用資料画像です。流れを見るには動画の方が良いと思いました。動画は静止画にして良い所取りして下さい。(文章は念のため旧バージョンで作成しています。)

   私の担当神社は志波地区が、

1、麻氐良布神社(旧郷社格で、斉明天皇や天智天皇の時代以前からある神社でこれからの考古学研究では非常に重要な核となる神社)
2、寳満宮(旧村社格)
3、老松神社(無格社ですが、大友宗麟と秋月藩の戦いの折、討ち取った大友方の敵将の首を祀っているという、曰く付の神社 因みに敵将名は野上一閑で別に詳細(※下記参照)を記す。)
4、稲荷神社(無各社)
5、愛宕神社二社(何れも無各社)
7、天満宮(無格社)
8、天満神社(無格社)
9、須賀神社(無格社 黒田官兵衛の一の家臣、栗山善助後の利安が四百年前に勧請した神社)
10、志賀神社(無格社)

   久喜宮地区

1、日吉神社(旧村社格 別に詳細(※下記参照)を記す。)
2、天満宮二社(何れも無格社)
4、愛宕神社(無格社)
5、須賀神社(無格社 朝倉市では甘木の須賀神社と志波、久喜宮の三社です)
6、田神社二社(何れも無格社 昔は、田神社があちこちにあったと思われます。埴安の命という土の神、田圃の神です。一説では太宰府の勢力拡大により、言葉の読みが近い田神社が天神社となり、天満宮に変わったともいわれます。実際、田神社の内一社の鳥居は天満宮とされています。因みに隣接地区には高木神社も多くみられますが、それは、英彦山の勢力範囲が及んでいたということになります。杷木地域はその鬩ぎ合いの跡が残る興味深い地域といえるでしょう。)
8、夕月神社(無格社 今回獅子とは関係ありませんが、桜の風景が綺麗でしたので入れています)
9、熊野神社(無格社 和歌山の熊野大権現を勧請した神社です。)
上に挙げた十九社はそれぞれ法人格を有し、日吉神社を私の本務社としています。その中で、獅子を
廻す祭が寳満宮の神幸祭、志波須賀神社の祇園祭、日吉神社の神幸祭、久喜宮の須賀神社の祇園祭です。
今回、久喜宮の須賀神社の獅子の画像は有りません。

 他にも神社庁に登録していない神社が多数あり、杷木地区はそれ以外にも別の宮司が担当する神社の獅子もいます。
地域の知らないことで、獅子舞を取り上げましたが、そもそも神社にまつわる歴史や文化は奥が深く、
特に、この付近の神社の祭典には特殊なものも多く、獅子舞に限らず、調べれば調べるだけ限りが無い程興味深いものが豊富にあることを申し添えます。尚、神社格は現在使用しませんので、あくまで参考ということでお願いします。

                           平成26年11月18日
                           朝倉市社会教育委員 梶原 明彦


 ※日吉神社について
                           日吉神社宮司 梶原 明彦
 
 当神社は、旧名で言うところの久喜宮村、若市村、古賀村、寒水村、合わせて四ヶ村の産土神社です。勧請の正確な年代は不詳ですが、いくつかのキーポイントはあります。
 
 総本宮は滋賀県の大津市坂本にある日吉大社で、ここに祭祀されております大山咋神(おおやまくいのかみ)は古事記上巻に「この神は近淡海国(ちかつおうみのくに)の日枝山(ひえのやま)にまします」と記されております様に、神代(かみよ)の昔から比叡山に鎮座する地主神(じしゅがみ)でした。その日枝山から日吉という名前に繋がっていったと思われます。当神社がこの日吉大社より勧請したというのは間違い無いでしょう。
 
 さて、それでは一体いつ頃この地に鎮座ましましたのでしょうか?
 
 その前に、日吉大社を山王社と呼ぶようになったのは、伝教大師最澄が比叡山に延暦寺を建立した折に(延暦7年、788年に一乗止観院という草庵を建てたのが始まりですが、開創時の年号をとった延暦寺という寺号は、最澄没後の弘仁14年、824年からです。)、地主神である日吉大社を、中国の天台宗本山の天台山国清寺(こくせいじ)で祀られていた山王元弼真君(さんのうげんひつしんくん)にならって山王権現と呼んだところからきています。
 また、大師が弘仁(こうにん)元年(810年)に旧朝倉郡福成村入池に巡錫(じゅんしゃく)した折、其の地の日吉神社を山王明神に改めたという資料が残っています。
 恐らくそれと同時期ぐらいに、当神社も日吉神社の名前はそのまま残しながら山王社の異名を持つようになったと考えられます。
 
 話を戻しましょう。「筑前国上座郡久喜宮邑山王社縁起」によれば、滋賀県の日吉大社から勧請して、初めに御鎮座したのは古賀村の上野というところです。ここにお鎮まりになった期間は三百有余年、その後一説には白鳳年間(650~654年)、或いは大宝年間(701~703年)頃に久喜宮村の原庄(原生、はらのしょう)つまり現在地に遷座したということなので、逆算すると、早ければ応神天皇(270~310年)や仁徳天皇(313~399年)の時代には既に勧請してあったことになります。興味深いのは、御祭神の一柱(ひとはしら)に応神天皇が祭祀されていることです。310年に崩御されましたので、その後の勧請である可能性が考えられます。
 
 当時の情勢として、神功皇后の三韓征伐(仲哀天皇の急死後、住吉大神の神託により、お腹に後の応神天皇を宿したまま海を渡り、朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻め、新羅は戦わずして降服し朝貢を誓い、高句麗・百済もこれに倣ったという)や、応神天皇の宇美での御誕生等史実の真意は論ぜずとも、当時から大陸との玄関口に当たるこの周辺の、緊張感を伴う賑わい振りを少なからず窺い知ることができます。
 特に朝鮮半島の情勢は、後にも大きな影響を与え合い、中でも友好的であった百済は高句麗の軍事的圧力に対抗するため、また新羅への牽制として倭国との和通を必要としていました。本国に於いても磐井の乱(527~528年)に見られる様に朝鮮半島南部の利権を巡り、筑紫君磐井(つくしのきみいわい)と結んだ新羅の計略による妨害行為など国内の統制は未だ不安定であったようです。
 時代が下がり斉明天皇6年(660年)百済は、朝鮮半島制圧のため新羅と結んだ唐との連合軍により滅亡させられましたが、百済の王族である将軍鬼室福信からの軍事援助の求めに応じ、翌年には天皇自ら筑紫へと赴き百済復興を積極的に支援しようとしました。
 朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)は既にご存知と思います。我が郷土に於ける中央政権の一時拠点となったことは特に重要な出来事です。
 朝倉宮の造成にあたって、麻?良布神社(恵蘇八幡宮ともいわれる)の木を伐ったことで神の怒りを買い、宮殿を壊し宮中には鬼火が出没、大舎人(おおとねり)と諸の近侍(きんじ)が病気になって多くの死者が出たとあります。更には斉明天皇まで崩御されました。
 その斉明天皇の子が大化の改新(乙巳の変,いつしのへん645年)で有名な中大兄皇子、後の天智天皇です。皇子もまた百済救済を指揮するため九州に滞在していましたが、天皇の喪に付き添い、海路で大阪から奈良に向かい飛鳥の川原で殯(もがり)をしました。
 しばらくの間皇位に即かず、称制(即位の式を挙げずに政務を執ること)をしましたが、663年に白村江(はくすきのえ)の戦いで大敗を喫した後、飛鳥から大津へ遷都してそこで即位しました(668年)。つまり、日吉大社のある大津が当時の都になったわけです。
 
 こうした情勢を踏まえ整理すれば、一つには、古代より朝鮮半島を巡る様々な思惑と大陸の玄関口であるこの周辺の、緊張感を伴う賑わいを感じます。次に、朝廷の勢力と地方豪族との力のバランスは未だ不安定であったといえるでしょう。さらにその統制を図る手段の一つとして、勢力範囲に関連のある神社を建立していったのではないでしょうか。
 
 古い棟札に「山王宮再興大壇越 中務大蔵朝臣種照 寛正五年甲申(1464年)姑洗念八日 伊豆備中守照舜」と銘があり、これが現存する一番古い資料です。その後幾度も荒廃と復興を繰り返し(戦乱や河川の氾濫等)、元禄8年(1695年)「古への社に比ぶれば誠に十分の一にも及ばざらめど、近き頃の御宮造りに比すればその構えいささか美はしと云うべし」と残っているように、ほぼ現在地へと遷座したのではないでしょうか。
 その後、嘉永2年(1849年)に拝殿、文久2年(1862年)に神殿が再建されました。拝殿にはこれより古い享保14年(1729年)や文政、天保といった古い絵馬も揚げられています。
 
 最後に御祭神を紹介いたします。
 大物(おおもの)主命(ぬしのみこと)(大國主、国造り、国護りの神)、國(くに)常(とこ)立命(たちのみこと)(日本書紀で天地開闢の最初の神)
 應(おう)神(じん)天皇(てんのう)、國狭(くにさ)槌(つちの)命(みこと)(野山を司る神)、豊(とよ)斟(くむ)渟(ぬの)命(みこと)(天地開闢の神で國常立命の次に登場)
 菊(くく)理(り)姫(ひめの)命(みこと)(縁結びの神、穢れを祓う神)、宇(う)賀(が)能(の)売(めの)命(みこと)(稲の精霊、食物神)
 手(た)力(ぢから)雄(お)命(のみこと)(岩戸開きで活躍する無双の怪力の持ち主)    以上 八柱です。
 
 縁起につきましては、まだまだ調査を要するところが多々ありますが、取り敢えずは現在ある資料を基に大まかな説明をさせていただきました。新たな資料等御座いましたら今後の編纂に役立てたいと存じますので、お教えいただければ幸いです。
 

※老松神社と野上上野入道一閑(一貫)について

【高山はその昔、秋月氏の出城であり、老松神社については以下の様に記されている】

 天正九年、秋月種実と大友方の将朽綱宗暦が原鶴を中心として両軍1万6千の軍が激突した時、秋月種実がこの所を本陣としているので、これから高山城と呼ばれるようになったものであろう。
 原鶴はこの城から眼科に展望できて戦場の馳引きには最適の場所と思われる。この山麓高山部落の老松神社は、原鶴合戦の時討ち取った敵将野上一貫の首塚であるという。

【野上上野入道一閑(一貫)について】

 針目山が落城した年の暮れ原鶴合戦があった。これは志波の瀬の戦いともいわれているが、永禄二年(1559)筑前豊前の守護となり、九州探題も兼ねている大友義鎮は、近年周防の毛利、薩摩の島津と親しくし、しだいに勢力を伸ばしはじめた秋月が、筑後への足がかりとしている浮羽大聖寺の拠点を叩かんとして出兵したことに始まる。
 以下、杷木町史「筑前風土記」の段から転写。
「秋月種実は兼ねて豊前の高橋元種にも出勢あるべきよし云遺しければ、元種夜を日についで十一月七日の夜、当地池田という所に着き、伏かまり居て、追っ手の合戦始まるを待ち居たり。
豊後勢是を夢にも知らず、翌八日に八千余人の勢原鶴に懸かって矢軍を始め、入り乱れて攻戦う、かかりける所に豊後勢の中より入道、野上上野入道一閑と名のり、三尺五寸白柄の長刀茎短かに取り、秋月勢を薙倒すこと草を刈が如し、秋月方の軍兵此の勢いに辟易して三町ばかり引き退く。
爰に秋月が士三奈木弥左衛門が子に弥平次とて、生年二十二に成りけるが、種実が前に進み出て云う様は、いで野上が首取って身方の兵に心安く軍を致させ申さん、然らばそれがしも討たるべし。
最後の御盃を頂戴せんと望みければ、士の一言は綸言にひとしければ、とむるもとどまらじ、さらば盃ささんとて土器取りよせ、みづから二度酌みて三奈木にささければ、弥平次大きに悦び、三たび酌みて盃を指し置き、馬引きよせ打乗り、山下に馳出る。
種実もおしく思はれければ、木所玄蕃、横内七郎左衛門、曽我平右衛門を差副へらる。弥平次は敵近くなりければ秋月が士、三奈木弥平次と云う者なり、高名したりと呼はり給う野上殿に見参せん、とかけ向かう。
野上出合うて件の大長刀を以て、山王の森を南北に馳けまはり、弥平次と戦うたり。
暫し勝負もなかりければ、馳けくらべて引組み、両馬が間に落ち重なるその時秋月が士横内、木所落ち合って遂に野上が首を取る。
豊後の大勢是を見て、槍先を揃え三奈木弥平次を始め、横内七郎左衛門木所玄蕃をも討取りけり。」

 さて、老松神社に於かれてはそのような経緯から所謂、敵将の首を祀っているのだが、この行為は、如何に敵であっても、その軍功に敬意を表し礼儀を尽くしており、そうした日本人魂は寧ろ立派であるといえるのではないだろうか。先祖のそのような思いを大切にし、後世へ繋げていくことに自信と誇りを持って頂きたい。
 因みに老松神社の名は、太宰府天満宮の菅原道真に由来している。
 都から九州の地に移った道真を追った「飛梅」の話は夙に有名であるが、「松」もまた主を偲んで追って来たという話が残っている。ここから追い松、やがて「老松」の名で天満宮と同じ道真を御祭神として各地に老松神社が設けられるようになった。
 野上一貫の首塚と道真との因果関係は詳細ではないが、高山という由緒ある土地柄を鑑みれば元々から神社はこの地にあったのではないかとも考えられる。
                             老松神社宮司 梶原 明彦

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